忘れられない記憶と物語~Remember~
私が中学生の頃に癌を患い、西洋医学の治療を受けることで病気の進行を抑えていた。しかし、2009年頃より癌が再発。ステージも進行し転移もある状態でした。当時の私は、そんな状態にある母親の異変には気づいていたものの、家族全体でそのことを知っていたのは父親だけでした。やがて、病院への入院・通院が増え、明らかに母親の容態がおかしい。そして、2009年9月頃、当時実家に住んでいた私と兄の達也(三男)が父親に問いかけました。「お母さんはどんな状況にいるの?何かできることがあるならやるから、本当のことを言ってほしい。」すると父親から思ってもみない答えが返ってきた。「お母さんの癌が再発した。医者からは病院でできることはもう何もない。年を越すことはできないだろうと言われた。」そして父親は、「西洋医学では可能性はないけど、東洋医学ならまだ可能性がある。何か方法があると思う。」息子として冷静で入られるはずがない状況なのに、「わかった。」と二人とも言っていた。決意なのかわからないが、やるしかないと思ったのだろう。その日を境に、母親を救うための闘う日々に変わった。
東洋医学にて治療する日々が約2ヶ月過ぎた11月頃、母親の容態は悪化し、癌の転移による痛みが体全体に及んでいた。その11月に藍野大学の合格通知が届きました。その時、母親は涙を流しながら「一人でよくがんばったね。つばさに何もしてあげられなかったけど、ほんとに強くなったね。」その言葉を聴いて、こんな苦しい状況だけど心が暖まりました。
月日が流れ2009年の最後の日を向かえ、家族全員ではないけれども母親、父親兄の達也、そして私で年越しをしました。年越しの際に母親が涙ながらに「本当にありがと。」そして家族みんなが「お母さん、これからだよ。大丈夫。家族で乗り越えよ。」年を越せないと言われたけど、家族みんなが笑って年を越せたことがうれしい。こんなにも暖かい涙に、もう一度、世界を信じてみようと思えた。
そして、2010年2月12日に一生を終えた・・・。
あの悲しみから1年、家族がともに前を向き始めた矢先のこと。
いつも家族を支え続けていた兄の達也は、重度の心臓病を患っていました。兄はいくつもの死線を乗り越えてきました。生活には多少の制限と不便さはありますが、それでも精一杯、生きていました。2010年の秋頃、心臓の検査にて異常が見られ、早めに手術をする方が良いと医者から伝えられていました。
2011年3月8日に心臓カテーテル手術を無事終え、退院しました。しかし、3月16日の夜に自宅で心不全により亡くなりました。手術が成功し、その後も順調に回復していたので、信じることができませんでした。生前の兄は、母親の代わりのように家事を、父親が疲れている時には代わりに愛犬の散歩を、その身を徹して家族に尽くしてくれていました。しかし、兄の大切な人から、決して家族の前では噤む事もなかった一言を伝えられました。「もっと色んなことをして、自由に生きたい。家族のためではなく、自分のために生きたい。」そんなことを想っていたとは知らず、やるせない気持ちが溢れました。
生前の兄は退院後、こんなことを言っていました。「人は一人では生きていけない。みんな、助け合いながら生きている。」その時は耳に残るだけで理解はできていません。でも、今ならその言葉の意味を理解できます。
自分だけが不幸だと思うな。人生長ければいいってものでもない。
母親の死も、兄の死も、試練の一つとして乗り越えなさい。
そして、残された時間を大切に。
・・・時は過ぎ、2017年7月14日。愛犬ルビーがこの世を去ることとなった。生後すぐに我家に来たルビーはヤンチャで食いしん坊だった。段ボールを噛み砕いてボロボロにしたり、サッカーボールを追いかける姿がとても印象に残っていて、私たち家族が家に帰ってくると真っ先に吠えてくれる優しい家族だった。少し体が弱かったのか、病気になりやすく、今回も子宮に腫瘍があったとのこと。顔面と体の一部の麻痺を伴い、生きることが辛かったのかもしれない。この世を去り、体の苦痛から解放されたルビーを天国に向か入れてもらえることと願いたい。
………また、私たちの家族が導かれるように天国に行ってしまいました。7年前の三男の兄が亡くなった2日後(2018年3月18日)ということもあるのか、大切な愛犬レモンがこの世を去ってしまった。2月に実家に帰った時には元気でしたし、あまりにも信じがたい事実であることを知らされました。レモンもルビーと同様に散歩で走り回ったり、ボールを追いかけることが好きで、たくさんの思い出が蘇ってきます。天国に行ってルビーや家族と再会していること願うばかりです。