カテゴリー別アーカイブ: 東北復興記録

岩沼市

2014.4.29 場所:岩沼市

 本日は福島県近くにある岩沼市に行きました。海岸沿いは工業が盛んなため、住宅への被害は少ないとはいえ、約200人が被災されています。また、海岸近くの岩沼海浜緑地は跡形もなかったです。海岸沿いの住宅は海岸より3km離れた玉浦公民館の近くに移設され、災害公営住宅として建設される予定です。ですが、広範囲なためいつ再建できるか目処が立ちそうになさそうで、復興への道のりは厳しいものだと感じました。

岩沼海浜緑地近くの跡地岩沼海浜緑地の跡

災害公営住宅建設地災害公営住宅

東松島市

2014/4/27 場所:東松島市

 本日は石巻市の隣にある東松島市に行きました。ご存知の方も多いと思いますが、東松島は航空自衛隊の拠点であり、東日本大震災時の津波によってほとんどの飛行機が災害を受け、救助活動が行えない状況にありました。海岸沿いということもあり、津波到達が早く逃げ遅れた方々も多く、約1000人に被災者がでました。

津波の襲来を受けた家矢本周辺の家

跡形もなくなってしまった矢本海浜緑地跡形もない矢本海浜緑地

野蒜駅。仙石線の矢本駅から松島海岸駅へは代行バスになっています野蒜駅

野蒜駅より100mのところにフラワーメッセージがありましたフラワーメッセージプロジェクト

女川町

2014/4/26 場所:女川町

 本日は石巻の隣にある宮城県女川町に行きました。ご存知の方も多いと思いますが、震災以前は全国でもトップクラスの水揚げ量を誇り、まさに漁業の中核を担っていました。しかしながら、約600名にものぼる被災者がでました。港近くということもあり、水没した土地が数多くあります。そのため、ガレキの撤去が進んでいるとはいえ、嵩上げ事業はまだまだ不十分な状態です。また、女川には現在は稼働していませんが、女川原発があるので町民の心には不安という二文字はなかなか払拭されていない状況です。

壊滅した建物。左に横転したままになっています 横転した建物女川 横転した建物

女川原発。女川駅からはわずか20kmの範囲にあります。女川原発

名取市閖上地区

2014/4/12 場所:名取市閖上

本日は宮城県の南にある名取市の閖上(ゆりあげ)地区に行きました。名取市では東日本大震災の影響で約1000人の被災者が出ています。特に閖上地区にある閖上小学校・中学校付近に津波が押寄せ被害が増しました。

閖上中学校の献花台の側にあるメッセージDSC_0415

閖上中学校。時計の針は14時46分を指したまま止まっていますDSC_0423

津波の襲来により無残となった教室DSC_0407

3階の廊下。床はザラザラのままだったUntitled-閖上中学1

石巻市立吉浜小学校 石巻市立相川小学校

2014/4/6 場所:石巻市立吉浜小学校 石巻市立相川小学校

本日は、北上・相川地区にある吉浜小学校と相川小学校にいってきました。吉浜小学校は北上川と北太平洋を繋ぐ位置にあり、津波対策の堤防は無残にも粉々でした。相川小学校は北太平洋のすぐ側にあり、堤防がなく港事態が津波にのまれたと思われます。海沿いの398号線は所々破壊されており迂回しないと通れないようななっております。 *取り壊された小学校は記念碑が置いてあります

取り壊された吉浜小学校DSC_0367

取り壊された相川小学校DSC_0376

海沿いのガードレールDSC_0377

石巻市渡波地区

2014/4/5 場所:石巻市渡波地区

 本日は、石巻市渡波地区に行ってきました。渡波地区は私が見た限り、津波に対する堤防は比較的高く、5,6mはあると感じたのですが、それでも相当な被害がでています。

石巻湾沿いに津波の災害を被っているDSC_0358 DSC_0356

石巻市憲章

まもりたいものがある
それは 生命(いのち)のいとなみ 豊かな自然
つたえたいものがある
それは 先人の知恵 郷土の誇り
たいせつにしたいものがある
それは 人の絆 感謝のこころ
わたしたちは 石巻でいきてゆく
共につくろう輝く未来

石巻市門脇・南浜・湊地区

2014/4/5 場所:石巻市門脇・南浜・湊地区

 本日は、石巻市の門脇地区、南浜地区、湊地区に行きました。それぞれ旧北上川のすぐ側にある地区で、石巻湾とも接しています。そのこともあり津波による壊滅的な被害を被ることになりました。

湊地区の大和食品工場DSC_0328

南浜地区にあった石巻市立病院。昨年の7月に解体後の埋め立てDSC_0348

地震の影響による地盤沈下DSC_0349

石巻市立門脇小学校 石巻市立大川小学校

2014/3/26 場所:石巻市立大川小学校
2014/3/29 場所:石巻市立門脇小学校
左:大川小学校 右:門脇小学校小学校
 石巻市立大川小学校では震災当時、ハザードマップでの津波・浸水区域とされておらず、避難所として指定されていました。学校の裏手には山もあり安全とされていました。しかしながら、山と堤防に遮られていて津波の動向が把握できない環境だったこと等が避難を遅らせた要因として挙げられ、教職員9割、生徒7割が亡くなられたそうです。DSC_0320 DSC_0316
 石巻市立門脇小学校では、大川小学校と同条件で裏手に山があります。学校に登校されていた生徒は裏手の山側へ避難がなされ、登校されていない学生約1割が亡くなられたそうです。ですが、津波で流されてきた家財などで小学校に火災が置き全焼しました。グランドを使う学生への配慮とのことで火災の跡は見えないようになっています。
 同じような条件でも被災状況が違います。避難の方法や出されている事前の情報が、全て真実とは限らない。そんな時にどう考えるか、どう判断するか。ここで被災があった場合どういう風に対応するか。皆様にも考えてもらいたいです。

 石巻でも有名な献花台と「がんばろう石巻」。津波は6m90cm(棒の先端の青色の位置)だったそうです。DSC_0336
本日、「JEN」というボランティア団体の方々が門脇小学校の校庭に花壇を作っていました。DSC_0339

語り部を聞く会

2014/3/22(土)語り部を聞く会  場所:ピースボートセンター石巻(PBV)
 DSC_0311 本日は、石巻市内にあるピースボートセンター石巻で、「語り部を聞く会」という実際に東日本大震災で被災された方々からその当時のお話をお聞きするイベントに参加しました。
 今回は、石巻市に在住していた20歳代後半の女性、現在はピースボートセンター石巻で活動されている方から震災当初の石巻付近の状況や、一人の人としての震災当初から1年後の心情などを語って頂きました。当たり前に使っている電気・水・火など日常で欠かせないものが一切使用できず、苦労したそうです。また、心の潤いを皆に与えようと震災当初から色々と活動していましたが、半年・一年と月日が経つにつれ、生きていることに悩みを抱いていました。当時、その女性の心を救ったのは、日本全国から集まったボランティアの方々や同じ想いを背負っている仲間と共に、皆を勇気づけようと色々な活動したことでした。震災をきっかけに何か活動を行うようになり、「震災のことを風化させたくない」、「これからの震災対策に繋げていきたい」とピースボードセンター石巻で活動されています。
 最後に一番伝えたいこととして「財産よりも命」。命があればなんとでもなるんです。そう力強く言ってくれました。また、震災後に学んだこととして、「人に興味を持つこと」を挙げてくれました。「支援」ではなく「始縁」がこれから必要なんじゃないかな。何かしなければいけないと想うのではなく、まずはそこの人たちと繋がりをもつこと。人に興味を持って、人と人が繋がることで色んな問題が解決できると想う。すごくいい言葉でした。